富山県魚津市の魚津八幡宮で御朱印をいただく!御朱印の詳細や境内の様子も紹介

神社や寺院の御朱印専門ブログ「御朱印巡りの旅」をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。

本日は、2023年11月23日(木・祝)に参拝しました魚津八幡宮の御朱印をご紹介させていただきますので、最後までご覧いただけますと幸いでございます。

魚津八幡宮の概要について

魚津八幡宮は富山県魚津市にある神社で、譽田別尊(ほむたわけのみこと)と菅原道真公(すがわらみちざねこう)が祀られています。

創建は不詳ですが、神社明細帳には「650年(白雉元年)、本村の開墾の際にこの社を創立して五穀豊饒の守護を祈らんがため氏神と祟む」と記載があるそうです。

魚津八幡宮の由緒について

八幡騒動と八幡宮献灯みこし祭り
八幡騒動

 加賀藩前田家から魚津八幡宮に賜った剣梅鉢の御定紋付の提灯四張りを紛失(もしくは破損)させたことから、町奉行が宮の祭りを禁止した。

 翌年、市内諏訪神社の祭り(交代で神事)のことで神明社と八幡社が争い、双方が寺社奉行に訴えた。神明社有利の判定が下され、それを不満とした氏子が集まって笛・太鼓で騒いだ後、奉行所へ押しかけ祭りの復活を請願した。

 寺社奉行が厳しい詮議をしたことに抗議するも猟師市右衛門、浜谷彦助、吉見屋幸助が刑に処された。

八幡宮献灯みこし祭り

 魚津八幡宮の祭りは春(四月)と秋(九月)に祭りがあり、いずれも月も十三日の日中に神職と神輿が氏子町内の家々を巡じる「御神幸」が行われる。

 そして、秋には十二町内から出陣する夜の「あばれみこし祭り」がある。毎年十四日に行われていたが、平成十七年からは九月の第三土曜日に行うことになった。この祭りは明治の御代となり文政十二年の「八幡騒動」から差し止めとなっていた祭りが復活した喜びを「宮あげ」で現したと同時に「八幡騒動」の犠牲者の慰霊が起こりである。

“八幡宮献灯みこし祭り”の看板より

八幡騒動について

騒動の発端

八幡騒動の経過は、1828年(文政11年)に加賀金沢城主前田淡路守から、魚津八幡社へ賜った剣梅鉢の前田藩主御定紋付の提灯四張りを八幡社の御用人秋山志摩助が紛失したか破損したことから、不注意不届きのかどで魚津町奉行岡田平兵衛からきびしい叱責を受け、当分のあいだ出祭り禁止の布令が出て、この宮の祭りをいっさい禁止しました。

さらに翌12年3月、市内諏訪町の諏訪社の祭りのことで、当時交代で神事を受け持っていた市内神明社と八幡社が争い、双方が藩の寺社奉行に訴えました。

これらを不満に思った氏子20余の町の町民たちが、6月18日、6月21日、6月23日のそれぞれ夜10時頃から、町内一か所に集まって太鼓を鳴らし、鬨の声をあげて騒ぎ、奉行所に押しかけて三晩にわたり春祭り執行の請願をしました。

諸某者の検挙と打ち首

それに対し、寺社奉行が金沢から出張、役人にたてつく不穏な行為として、市内角川町の倉屋伝四郎宅に出張役所を設けてきびしい詮議を行ったので、同月27日には氏子740余人が、出張役所に集まって役人に暴言をはいたりしたそうで、7月6日から騒動の首謀者の検挙が始まり、町役人、肝煎、町頭、組合頭をはじめ氏子らを、金沢公事場に召し出して入牢を申し付け、1830年(天保元年)7月18日、漁師市右衛門、浜屋彦助、9月2日には吉見屋幸助が打ち首のあと、梟首にされました。

これは魚津史誌にある越中資料の富田旧記によるものですが、八幡社神主高松正治氏の手許にある先々代高松令順氏(大正14年78才で没)からの覚書によると、魚津はいつの頃か分からないが、岡町以西を上手上口と呼び八幡社の氏子地、荒町以東を下手下口と呼んで神明社の氏子地と区別し、祭礼などを営んできたが、1829年(文政12年)に神明社神主の高倉氏、八幡社神主の田代氏の両名入合神勤の諏訪神社の斎神につき、山幸の猟の神か海幸の猟の神かで主張して争い、ついに一大論争となり、その結果、その神主の奉仕している本社にその累を及ぼしました。

当時の町奉行岡田八兵衛は、八幡社の神主たる田代氏に対し、私憤私怨あって八幡社に対し悪い扱いをしたため、氏子たちが怒って定規を越え、当時江戸小石川の伝通院五十八世の住職玄順上人が魚津西願寺の徒弟であった縁故をたより、密書を送って上人から幕府に直訴してもらおうとしました。

それが途中で発覚したため、町奉行ならびに富山、加賀藩を怒らせ、役人、町頭、組合頭をはじめ氏子など67人を金沢公事場に召し出し、41人に入牢を申し付け、首謀者として3人を梟首の刑に処したとの記述があるそうです。

騒動に対する裁定

一、八幡社は社有地を二か所に持つと主張するが、一か所については証拠が怪しいので田地方の社有地しか認められない。

一、八幡社の神主が神明社の氏子の祭りにまで出かけているが、これは神明社にとって迷惑だから榊振は今後やめること。

一、諏訪社の祭神については、八幡社がわは事代主命、神明社がわは建南方命と主張しているが、これは神明社が正しい。今後は八幡社から諏訪社へ立ち入らぬよう、高倉持分の宮とする。

といったもので、八幡社側の主張が通らなかったことになっています。

今でも八幡社の祭りには、八幡騒動の犠牲者の首塚の前まで渡御して霊を慰める意味合いが含まれているのとこと。

八幡騒動の原因については、前記のように二通り考えられるが、藩政時代には一揆行為は厳しい法度でした。

「何事によらずよろしからざる事に百姓大勢申し合わせ候を徒党ととなえ・・・」

これは、百姓一揆の密告を懸賞金付きで奨励した1770年(明和7年)の幕府の通達で、魚津町でも同文の高札を立てました。

このようなときに神主の勢力争いに氏子が巻き込まれたにしては犠牲が大きすぎるし、文政、天保期の幕府や、武士の権威が地に落ち、大塩の乱をはじめ民衆の決起が全国各地で起こった時期といっても、神主の争いに氏子が死罪を覚悟してまで立ち上がるのは、よくよくの事情がなければと思われます。

考えられることは、八幡社の氏子には漁民が多く、その信仰が厚かったということ。
そのことを示すものに、八幡騒動ののち八幡社が廃社同様になっていたが、八幡社のみこしが金沢に保管されているとわかると、大金を積んで氏子代表がみこしを持ち帰り、氏子たちは何日もみこしを囲んで喜んだと言います。

これは氏神信仰の一面を語る話しです。

この漁民の町が大正七年の米騒動の火口を切ったことおも考え合わせると、八幡騒動は漁民の精神生活、熱狂的な性格、この町の気風が、祭り禁止ということに対して、死の抵抗の歴史をつづったものと言えます。
その歴史が庶民の心を打ち、顕彰碑となって、その義勇を後世にまで語り伝えるものとなったと言えます。

参考:「魚津市史」上巻

御神幸について

御神幸ごじんこうは4月と9月の13日に行われ、天狗(地元では「ばち」と呼ばれている)を先頭に御神輿(神様)が氏子の各家々を1軒1軒回ります。
家では玄関に、三方にお米を十二分にと言う意味で1合2勺と御神酒をお供えします。
そこへ神主様がこられ、家の前に御神輿が止まったところで、家内安全や無病息災を御祈祷されます。

当初は御神輿を10人くらいの人力で担いでいたと言います。
それが人手不足で車輪に乗せたものを引くようになり、現在は自動車を改造して氏子の家々をまわるようになりました。

今の御神輿は数年前に手直しされ、天狗の衣装も共に真新しくなりました。
職人さんが手直しをする際に御神輿を調べたところ造りが正六角形ではなかったという話もあります。

赤い面の天狗は「猿田彦」と言い、常に御神輿の前を歩き神様の道案内をする怪異な容貌の神です。
幼い子供には怖がられるが、小さい子供にとても人気です。
持っている太刀で頭を撫でられながら氏子の者たちは育ったそうです。

八幡宮献灯みこし祭りについて

祭りの由来

この祭りは、1829年(文政12年)に町奉行の神社に対する圧政に坑したる廉により、入牢67人、梟首の刑3人、祭りの差止めとなったいわゆる「八幡騒動」により廃滅同様になっていた神社が、明治の御代に至り再び祭礼の復興をみたその喜びと犠牲者の慰霊が「みこし祭り」の起こりです。

祭りの様子

当日の昼間、さらし首の場に築かれてある小塚に詣り、続いて境内の顕彰碑の参拝を経て、夜の献灯みこし祭りが展開されます。

祭礼日の夜には、点灯に飾られた氏子12町、12基の神輿が各氏子町内の家々への巡行を終えるとすべての神輿が神社に集まり、社の前に一列に並んだ神輿が順番に祓いを受けては次々に3回ずつ拝殿に乗り上げるというもの。

その状は勇壮そのもので、乗り上げる毎に起こる観衆の響めき、各神輿の打ち鳴らす笛太鼓の響きは耳を覆うばかりだそうです。

各神輿には、天乃川、名月、桂川、白帆、高砂、小戸ヶ浦など、それぞれの縁のある、あるいは願いをこめた名称があり、若者たちが神輿名染め込みの法被・鉢巻き、鈴のついた化粧前掛けをしめた伊達姿で舁げば、子供たちもまた「小若」の染め込み法被で、高張たかはり提灯や西瓜雪洞すいかぼんぼりをかざし、神輿の先陣を切りながら「ヤッサホーレンマー」鳳輦の掛け声勇ましく、笛太鼓を打ち鳴らし町練する状は豪華壮観、「八幡様のみこし祭」と近郊にきこえた名物祭りとなっています。

必ず降る雨

この祭日には、なぜか決まって雨が降り、それは八幡騒動で打ち首になった者たちの涙ではなかろうかと言い伝えられています。

魚津八幡宮の境内について

魚津八幡宮を参拝した際、境内を散策しながら写真に収めてみましたので、その一部をご紹介させていただきます。

社号標

社号標

県道137号(堀江魚津線)沿い、浄土宗 群金山 養林院 西願寺の向かいに社号標がりました。

社号標には、「指定 村社 八幡宮」と書かれていました。

鳥居

鳥居

社号標のある参道を歩いて進むと鳥居がありました。

鳥居の扁額

扁額には、「八幡宮」と書かれていました。

神輿庫

9月の第三土曜日に行われる八幡宮献灯みこし祭りに使用する氏子12ヵ町の神輿が保管されているとのこと。

あいの風とやま鉄道と富山地方鉄道の高架橋と鳥居

参道を横切るような形で、あいの風とやま鉄道と富山地方鉄道の高架橋があり、高架橋越しに雪化粧の山並みを見ることができました。

高架橋

あいの風とやま鉄道と富山地方鉄道の高架橋と社殿

高架橋の下は月極の駐車場になっており、利用者の名前が掲げられていました。

狛犬

狛犬(右)

右の狛犬。

狛犬(左)

左の狛犬。

手水舎

手水舎

とても立派な手水舎で、チョロチョロと水が流れ出ていました。

社殿

社殿と銀杏の木

手水舎と社殿、そして、社殿の右側には、見事な銀杏の木がありました。


社殿と銀杏の木

銀杏の木は紅葉の見頃を迎えていました。

社殿

社殿を正面から撮影してみました。

社殿

一派な造りの社殿・

社殿

社殿を右横から撮影してみました。

社殿の扁額

八幡宮の八は鳩の絵になっていますね。

神楽殿

神楽殿

社殿の右側に神楽殿がありました。

一脚の椅子がポツンと置かれている様子がとても印象的でした。

天満宮

天満宮が境内社としてあるとのことでしたが、確認できませんでした。
その名残りでしょうか。

絵馬堂
昭和8年に奉納された船の絵

何のための船なのか分かりませんが、立派な船のようですね。

工事の記念

大正9年に行われた工事の記念のためのもでしょうか。

境内

鬼瓦

大きな鬼瓦が飾られていました。

顕彰碑

1964年(昭和39年)に建立された顕彰碑は、八幡騒動で打ち首になった者を慰霊するもの。

鬼瓦と顕彰碑の間に境内社としての天満宮があったそうですが、参拝した時にはありませんでした。

境内からの景色

山並みと角川

境内の裏手には、角川が流れており、その先には北アルプスの山並みを眺めることができました。

山並み

山の名前が分かれば良いのですが、すみません。

山並み

里山にも紅葉が降りてきました。

山並み

雪の便りも山から里へ。

山並み

右に見える山は剱岳でしょうか。

南天

境内の裏手を流れる角川の土手に赤い実を実らせている南天がありました。

魚津八幡宮の御朱印について

魚津八幡宮の御朱印と御朱印に関する情報を紹介させていただきますので、参拝時の参考にしていただけましたら幸いです。

時間未確認
場所社務所

魚津八幡宮の御朱印

魚津八幡宮の御朱印
墨書き奉拝
魚津八幡宮
令和五年十一月二十三日
八幡宮印
初穂料300円
御朱印帳への書き入れ

魚津八幡宮の詳細について

魚津八幡宮の詳細情報をご紹介させていただきますので、参拝時の参考にしていただけましたら幸いです。

社名魚津八幡宮
社格等旧村社
創建不詳
祭神品陀和気命
境内社金毘羅社
例祭等4月13日 春祭り
9月13日 秋祭り
9月第三土曜日 八幡宮献灯みこし祭り
参拝時間参拝自由
参拝料金無料
所在地富山県魚津市田地方町407
電話番号0765-22-0519

魚津八幡宮の交通案内について

魚津八幡宮へのアクセスをご紹介させていただきますので、参拝時の参考にしていただけましたら幸いです。

車でのアクセスについて

  • 北陸自動車道魚津インターチェンジから車で約10分

駐車場

利用時間自由
料金無料
台数数台
備考

公共交通機関でのアクセスについて

  • 富山地方鉄道電鉄魚津駅から徒歩で約10分

位置(Google Map)について

魚津八幡宮の参拝を終えて

最後までご覧いただきまして、心よりお礼申し上げます。

魚津八幡宮の情報は少ないものの御朱印をいただけることを知り、初めて参拝させていただきました。

もう少し魚津八幡宮の由緒などを調べて伺いたかったのですが、インターネットではほとんど見当たらず、ほぼ知識がないままお邪魔してしまいました。

社務所にいらっしゃった宮司に「本日は御朱印をいただくことはできますか?」と尋ねたところ、快く引き受けていただきました。

なお、少し耳が遠いご様子なので、はっきりとした声で話し掛けられた方が良いかもしれません。

なお、この記事は、パンフレットやインターネット上の情報などを参考にし、作成させていただきました。
正確に記載するよう努めておりますが、万が一、記事の内容に誤りなどがございましたら、お問い合せからご連絡いただけますと幸いでございます。

御朱印は神社や寺院への参拝の証です。
旅先や出張先でご縁をいただいた神社や寺院を参拝させていただいた際、旅の思い出とともに持ち帰り、大切に保管させていただいております。
参拝や御朱印いただいた私の記録として、御朱印巡りを楽しまれている皆様にも情報共有を目的としておりますが、皆様にもご縁をお裾分けしたいという気持ちを込めて、ご紹介させていただいております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT US
神社や寺院の御朱印専門メディア「御朱印巡りの旅」編集長
加賀百万石の城下町・金沢に住んでいます。 仕事はWEBマーケティングを得意とするコンサルティング業を営んでいて、趣味は神社仏閣巡りや御朱印の収集のほか、温泉や旅行、そして、写真などです。 仕事柄、全国各地へ出かけることが多く、訪れたその土地の神社に必ず参拝するなど、昔から神社はとても身近な存在で、いつの日か参拝の際には御朱印をいただくようになりました。 参拝の証でもあり、さらに私にとっては旅の思い出もある御朱印の話題を中心に、神社や寺院の御朱印専門ブログ「御朱印巡りの旅」を通じて、皆様にお届けできればと考えています。 また、神社や寺院の皆様を対象にしたホームページ制作やソーシャルメディア運用代行などのWEBマーケティングサービスを提供していますので、ご興味のある方はお気軽にご連絡いただければ幸いです。